花樣年華:愛而不得 花様年華:ずっと一緒にいられなくても

花樣年華, 王家衛 (2000)

《花樣年華》絕對是目前我看過的王家衛作品裡最喜愛的一部,直述曖昧與愛而不得也可能是種美好結果的故事。


兩對在婚姻裡不確定過得是否開心的夫妻,當另一半先越過了那條線,而他們的靠近卻是為了想知道,另一半之所以偷情的理由。在彼此揣測,曖昧一來一往間,他的心思早已飄到她身上,她也故作分享芝麻糊卻實為要照顧他。


曖昧,是在燈光不明的狹長樓梯間的眼神流轉,夏季的悶熱潮濕更添思緒的黏稠;相思相愛,是討論著武俠小說的行進,還有糯米雞,以及床底下的那雙粉色繡花拖鞋;依賴,是餐飯間推擬女人詢問丈夫是否出軌,丈夫攤牌,她忍不住淚水卻發現她真正在意的人是眼前的男子--丈夫出軌的對象的男人。


「今晚我不想回家。」

她依靠在他肩膀上低語。


始終跨過了那條線,但故事仍舊保持曖昧態度,沒有明說。


「是我,如果有多張船票,妳會不會跟我走?」


女人始終沒有答應男人,而是自己到了新加坡,眷戀不捨地看著男人的居處。

多年後,男人重回舊地,人事已非,他不知道的是,女人其實搬到了他以前的住所,而且帶著一名孩子。


她選擇自己生養,也可能沒有和男人保持一定的聯繫。男人跑到了柬埔寨,對著牆上洞口說了自己的祕密。他的祕密確切是什麼呢?無所謂,但肯定跟愛有關。


《花樣年華》從頭到尾沒有一個人說愛,但電影從頭到尾完全離不開愛。

愛,一定要雙宿雙飛、形影不離嗎?

有沒有一種可能是,我愛你,卻也能滿足於「不擁有你」?

對我而言,男女私情的愛裡,帶著「佔有」,因此不得到的愛情,是帶有缺憾的。

不過,這部電影卻讓我知道,當我也能像蘇麗珍那樣,愛而不苦苦求「得」,面對什麼樣的人談什麼樣的戀愛,都能自在吧。


但,蘇麗珍自在嗎?

有個孩子相伴的她,不會寂寞的。


【日本語】

 『花様年華』は、これまでに観たウォン・カーウァイの作品の中で一番好きな作品で、曖昧さと愛し合っても一緒にいられないことが美しい結末(?)と言えるストーリーです。


幸せかどうか分からない結婚生活を送る2つの夫婦が、互いの相手が一歩踏み込んでしまった線を越え、浮気の理由を知りたいと思い、探り合い始めました。疑念の中で、曖昧な関係が築かれ、彼の心はすでに彼女に向いており、彼女も彼を気遣いながらふりをかけています。


曖昧さは、狭くて長い階段の中での視線の交差であり、夏の蒸し暑さが思考をどろどろにさせていきます。愛し合った証拠は、武侠小説について話し合い一緒に執筆すること、糯米鶏(もち米に鶏肉やシイタケなどを包み、蓮の葉で蒸す料理)、そしてベッドの下にあるピンクの刺繍のスリッパでした。また、食事の間に、彼女がチャウを夫のことだと思って、チャウに浮気しているでしょうと尋ね、彼女は涙をこらえながら、自分が気にしているのは、実は夫の浮気相手の旦那のことです。


「今夜は帰りたくない。」

スーはチャウの肩に寄りかかってつぶやきます。


線を越えたかどうか、映画は曖昧のままで、明確には語られませんでした。


「乗船券がもう一枚あったら、俺と一緒に行かないか?」


スーはチャウに答えることはなく、代わりに黙ったままにシンガポールに行き、彼の部屋を懐かしんで見つめていました。数年後、チャウは以前住んでいた場所に戻り、すべてが変わっていました。しかし、彼が知らないのは、スーが彼の以前の住所に引っ越し、子供を一人連れていることです。


彼女は自分で子供を育てることを選び、チャウとの一定の連絡を取らなかった可能性もあります。チャウはカンボジアに行き、壁の穴に向かって自分の秘密を告白しましたが、その秘密は具体的に何かはわからなくても、愛に関係していることでしょう。


『花様年華』は最初から最後まで誰もが「愛」を口にすることはありませんが、始めから終わりまで愛から離れられないものです。愛は、必ずしも一緒にいることが必要なのでしょうか?


恋愛の要素の一つは「独占的」なので、独占できない愛はやや残念かもしれません。だけど、この映画は私に教えてくれました、それは一緒にいられなくても(独占できなくても)愛し続けることができることです。


ところが、スーは本当にこのままでいいのでしょうか?

その人の子供と一緒にいる彼女は、もう一人ではないからですね。


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